私たちの健康は「食・心・動・環(環境)」により育まれますが、その中で「心」ほど難しいものはありません。「ポジティブシンキング」と言われても、苦しみや絶望が大きければ大きい程、その言葉が心の奥に届く事は容易ではありません。今週ご紹介するのは、工学博士で多摩大学大学院名誉教授の田坂広志氏の「すべては導かれている」(2022刊PHP文庫)という本です。この中で田坂氏は自らの経験を通して、その心の道程を分かりやすく導いてくれています。
30年以上前、田坂氏が32歳の時、重い病を患い、医者から「もう長くは生きられない」と宣告されます。そして、日増しに状態が悪くなる中で、「藁をもすがる思い」で両親に勧められた病が治るという禅寺に向かいます。そこには何か不思議な治療法でもあるのかと期待しましたが、田坂氏のその思いはすぐに打ち砕かれました。寺を訪れると農具を渡され、ただひたすら畑仕事で献労する事が求められたのです。「明日の命も知れぬ自分が、なぜこんな農作業をやらなければならないのか。」そう思いながら鍬を降り下ろしていると、近くで「どんどん良くなる!どんどん良くなる!」と叫びながら懸命に鍬を降り下ろす男の人がいました。休憩時間に声をかけると、その人は「もう10年も病院を出たり入ったりです。このままじゃ家族が駄目になる。自分で治すしかないんです!」と覚悟を語りました。それまで医者が治してくれないか、この寺が治してくれいないかと、常に他者頼みだった田坂さんでしたが「自分で治すしかないんだ!」と始めて気づきます。
献労の日々を続けて9日目、ようやく寺の禅師との接見がかないました。一対一で向き合った禅師は力に満ちた声で「どうなさった」と聞かれました。田坂さんは堰(せき)を切ったように、医者から見放され絶望の中で生きる苦しい胸の内を、そして一縷(いちる)の望みを抱いてこの禅寺に来た事を、伝えました。田坂さんの話を聞き終えた禅師は、暫くの沈黙の後、「そうか、もう命はながくないか」と語りかけ、「はい…」と田坂さんが答えると、腹に響く声で力強く、「だがな、一つだけ言っておく。人間、死ぬまでは命があるんだよ!」。一瞬、あまりにも当たり前の言葉に、何を言われたのか田坂さんは理解が出来ませんでした。そして、禅師はさらに続けてもう一つの言葉を田坂さんに力強く語りかけると、田坂さんが理解する間もなく接見は終わりました。
部屋を出て長い廊下を戻りながら、禅師の言葉を思い起こしていた時、その瞬間、突如、田坂さんは気付いたのです。「そうだ、禅師の言う通りだ!人間、死ぬまで命があるにも拘らず、私は死んでいた!どうしてこんな病気になってしまったのかと『過去を悔いる』ことに延々と時間を使い、これからどうなるんだろうと『未来を憂うる』ことに延々と時間を使い、かけがえのない今を生きていなかった…」。そしてその瞬間、禅師が続けて語った言葉が、心に甦ってきました。「過去は無い。未来もない。有るのは、永遠に続く、今だけだ。今を生きよ!今を生ききれ!」。この言葉が田坂さんの胸に突き刺さり、「この病で明日死んでも構わない。過去を悔いる事、未来を憂うる事で、今日というかけがえのない一日を失う事は絶対にしない!今日という一日を、精一杯に生き切ろう!」。そう覚悟を定めた瞬間、田坂さんは病を超えて、奇跡へと導かれる事になって行きます。